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倉吉博物館の概要と沿革

 
 倉吉博物館は、昭和49年5月24日に開館しました。倉吉市のシンボルである打吹山の麓、打吹公園椿の平(つばきのなる)の東側に建設されています。博物館の正面玄関の右手にそびえる打吹山は、「森林浴の森日本百選」「さくら名所百選」などに選定されており、建物の周囲はヤブツバキ、サクラ、シイなどの大樹に囲まれた森の中の博物館です。また、博物館の片流れの赤瓦屋根、白い壁、中庭の水辺などは、伝統的建造物群保存地区を有する倉吉の町並を象徴しており、昭和50年第16回建築業協会(BCS)賞を受けています。

 展示室は美術部門と歴史部門からなっています。展示室1・2・3は、前田寛治、菅楯彦をはじめとする郷土ゆかりの洋画家、日本画家の作品を展示しています。そして近年では倉吉市が全国の画家から指名公募しておこなう「前田寛治大賞」「菅楯彦大賞」の受賞作家の作品や現代作家の作品を展示しています。第5展示室は倉吉一円の遺跡から出土した豊富な考古資料、国の重要文化財「子持壷」 「装飾須恵器」 「谷畑祭祀遺物」などを展示し、約1万年前からの先人の生活や歴史がわかるようになっています。

 博物館と隣接した歴史民俗資料館(昭和57年開館)には、第1展示室には明治・大正時代の倉吉の民俗資料、稲扱千刃、太一車(水田中耕除草機)などの革新的な農機具、鋳物師資料などを展示し、生活や倉吉の産業などがわかるようになっています。第2展示室には、倉吉絣(かすり)と倉吉に伝わる民俗行事の写真パネルなどを展示しています。

歴史部門の沿革

 鳥取県中部地区には、約1万年前から先人の生活の跡が見られ、弥生時代の終わりから古墳時代にかけて多数の集落がつくられていました。また、奈良時代には伯耆国(ほうきのくに)と呼ばれ、地方政治、文化の中心地として、国庁や国分寺が倉吉市内に置かれるなど、古代から栄えていました。そのため遺跡が広く分布しており、発掘調査により数多くの考古資料が出土しています。これらの考古資料などは、各小学校の郷土資料室に収集保管されていました。

 昭和30年には文化財協会が設立され、倉吉の歴史研究の端緒となりました。文化財協会の活動は、市内の文化財調査研究をはじめ、講演会の開催や県外への文化財実地研修など幅広く活発なもので、倉吉の歴史研究をおおいに推し進めることとなりました。昭和43年には「倉吉郷土館」が開設され、館長は丸井晴美、協議会委員長には伊佐田甚蔵が就任し、毎月一度の郷土文化研究会、郷土館だより、機関誌「波々伎」を発行しました。郷土館に展示された資料は、協議会委員の谷田亀寿や安藤重良らの尽力により、市内の小学校郷土室から移管されたものでした。展示資料は、考古、歴史資料のほか、民俗資料、自然科学資料も展示されておりました。昭和48年11月の閉館まで、倉吉郷土館は倉吉博物館の前身となる活動をしていました。

美術部門の沿革

 昭和6年、若くして亡くなった郷土出身の洋画家前田寛治をしのんで「前田寛治美術館」を建設しようと前田寛治美術館期成会が組織されました。これが「倉吉に美術館を設置しよう」という運動の始めです。翌昭和7年には、大阪朝日会館で前田寛治遺作展を期成会と倉吉中学校同窓会の主催で行われました。前田寛治を偲ぶ画家仲間は、自らの作品を賛助出品し、その売却金を寄付しようと申し出ています。出品者は伊原宇三郎、川口軌外、里見勝蔵、鈴木亜夫、中山巍、林武、並びに寛治と同郷の伊谷賢蔵、香田勝太、増田英一です。しかし結果ははかばかしくなく期成会の活動は着手したにとどまりました。このとき出品された伊原、里見、増田以外の作品は、昭和49年に倉吉博物館に引き継がれ、現在博物館の貴重な作品として所蔵されています。この運動は昭和10年に再燃し、美術館完成予想図、美術館展示予定作品が公表され、また資金調達などにも取り組みましたが、実現には至らず、運動は頓挫してしまいました。
 
 戦後は、昭和22年に砂丘社が再興され、昭和25年に倉吉美術協会が設立、会長には原田謙太郎が就任しました。昭和29年には倉吉市展、昭和35年前田寛治遺作展が開催されました。そうした中、作品を展示する場として美術館建設の県民要望が強くなりました。

倉吉博物館開館の沿革

 昭和43年9月、鳥取県では県民の要望に応え「県立総合文化センター」構想を発表しました。倉吉市では、「県立総合文化センターの美術館、博物館誘致期成同盟会」を組織し、11月18日、小谷市長をはじめ関係者が石破県知事、県議会に倉吉への誘致を陳情しました。これが、倉吉博物館建設運動の皮切りとなりました。ところが、県立博物館は鳥取市に建設されることとなり、45年に「誘致期成同盟会」は解消されました。
 
 倉吉市の博物館建設の推進は、「文化会館(仮称)建設専門委員会」に引き継がれ、各地の視察や資料収集などの調査を重ねました。昭和46年1月に、小谷善高市長と福井忠利教育長名で出された「倉吉市博物館建設の趣旨とお願いについて」によると、博物館は、「この施設の基本は既設の倉吉郷土館を吸収して考古、民俗等の部門とし、新たに郷土的特色のある美術部門を設ける構想」とし、内容は、「考古、民俗等の部門は現有の郷土館資料を中心になお中部各町村に協力を求め、美術部門は郷土関係の前田寛治、菅楯彦両画伯の絵画をはじめ多くの優れた美術品を蒐め」、運営に当たっては、「明日を創造する文化の殿堂として、その教育使命を全うする」と述べられています。そして、建設場所については、さまざまな議論を経て、46年3月に打吹公園椿の平と決定しました。
 
 昭和47年5月には、博物館の建設について具体的な準備をすすめていくために「倉吉博物館建設準備委員会」が設立されました。委員長・伊佐田甚蔵のもと歴史、美術、施設の3部門で構成され、建設構想について具体的に検討していきました。また、47年10月には、倉吉博物館協会(会長:伊佐田甚蔵)が発足し、博物館活動の支援、特に博物館の設備充実のための基金募集運動に着手し、市民、企業などから5百数十件、6千万円余の支援をいただくこととなりました。47年11月、いよいよ倉吉博物館の起工となりました。工事費は2億8千万円で、設計管理者は(株)日建設計、施工者は(株)熊谷組でした。翌48年11月、市制20周年の記念すべき年に倉吉博物館は完成しました。開館のための諸準備を経て、初代館長に桑田忠之助を任命し、昭和49年5月24日、中部地区待望の倉吉博物館竣工式、翌日開館記念特別展が一般公開となりました。倉吉博物館第1回の特別展は「前田寛治の生涯展」 「倉吉の古代展」でオープンしました。

 このような、志ある人たちの並々ならぬ努力と運動により倉吉博物館は建設され、今日に至っています。その後、昭和57年3月に倉吉歴史民俗資料館が南側山手に建設され、10月に開館しました。資料館は民俗資料を研究・保存・展示するとともに、埋蔵文化財発掘調査により出土した考古資料を研究・整理する埋蔵文化財センターとしての機能をあわせもっています。倉吉博物館に隣接し、渡り廊下でつながり、両施設が一体として運営されています。また、市民の文化活動も盛んとなるにつれ博物館も手狭となり、平成3年には収蔵庫と展示室の増築をしました。

 地域文化の拠点として一翼を担ってきた当館の主な活動は、海外でははじめてといわれる「中国画の至宝・斉白石展」、国立西洋美術館所蔵「ロダン展」、全国初の「誕生釈迦仏展」 「蔵王権現展」 の仏教美術特別展など、美術・考古・民俗それぞれの部門で貴重な特別展を開催してきました。また全国の第一線で活躍する作家を対象としたトリエンナーレ美術賞「倉吉:緑の彫刻賞」「前田寛治大賞」「菅楯彦大賞」を創設し、21世紀に向けて「発信するまち倉吉」「文化のまち倉吉」として歩みつづけているところです。そしてメディアと連携し新しい企画や来館者の増加を図るなど、市民から愛される倉吉博物館をめざしています。